受験〜そして大学生へ
お久しぶりです
二ヶ月ほど席を空けていました
晴れて大学生になったので
ボクの受験戦争をここにつづります
今後の後輩たちの参考になればよいと思います
僕は中学生の頃から特別頭が良かったわけではない
むしろ中の下ぐらいの賢さだった
高校でもそれは変わらなかった
一年から二年の秋くらいまで遊びまくった
勉強なんて嫌いだった
とにかくバカなことをして
笑いに一生懸命だった
しかし、高2の秋くらいに
大学の事を考えなければならなくなった
どこに行くのか?
とくにビジョンはなかった
その時はとりあえず大学ということで
関西の中堅大、
いわゆる産近甲龍の一つ
甲南大学に行こうと思っていた
自分の成績的にもそこが狙える範囲で妥当と思われたからだ
だが、本当でそれでよいのか?
なんとなく大学に行くために
勉強なんて、そんないい加減な気持ちで嫌いな勉強が続くわけがない
そこで僕に急に頭によぎるものがあった
それは今の自分の生き様だった
僕は周りから見ても奇人である
筆箱をやかんにしたり
単語を覚える時間に辞書を一冊覚えようとしたり
学校で鍋や流しそうめん、炊き込みご飯をしたり
趣味でトラックに乗りたいなどと
バカなことをするのにはいつも自信を持っていた
しかし女子にはモテなかった
そこで僕はとにかく頭が良くなりたいと思った
バカがバカで終わる
それもカッコいいかもしれない
けど僕は
バカだけど頭が良い
このギャップこそが本当の自分の生き様なんじゃないかと思い始めた
Twitterで、ある人が
「趣味でトラック乗ってる奴って真面目に大学出てる奴いんの?アホばっかだよな?」
という書き込みをみた
誰もいないんなら
僕がそのイメージを覆そうと思った
誰からにも認められる
趣味のトラックドライバーになる
バカだけどバカにされない奇人になる
ただそれだけのために
高2の冬から勉強しはじめた
しかしその動機は自分を強く動かした
そして最後まで自分を支えてくれた
そして大学を調べている時に
おもしろそうな学部を見つけた
その学部は
災害や交通、サイバーなどあらゆる面から人の命、安全を守るための学びができるという学部だった
人の命を守るための学び…
それだけでもうずうずした
ただ大学に行きたいという気持ちではなく、学びたいという気持ちができた
しかし、その学部があるのは
関西トップ4私立大学
いわゆる関関同立の一つ
関西大学である
当然、その時の僕の学力では到底無理だった
学校の先生は、厳しいんちゃう?といった
塾の先生は死ぬ気で頑張ったらいける、不可能ではないといった
僕は勉強をした
勉強が嫌いだけど勉強した
そして高3の定期テスト
英語で92点、86点をとった
こんな点数とったことがなかった
いつも60点とかよくて70点で満足していた
周りの女の子からも
「じょちゃん頭ええねんな、失礼やけど今までアホやと思ってた」
そう、今までアホだった
だが今は違う
あの動機が自分を変えた、あんなバカみたいな動機が
嫌いな勉強をする火種になっていたのだ
その女子の一言はまさにその動機にあてはまる一言だったので
今でも鮮明に覚えている
そして学期末、模試があった
第一志望に関西大学と書いた
そして結果が返ってきた
もちろん合格確率は2%とかで
言ってしまえば受からないという判定だった
しかし学内順位は50位以内に入っていた
それだけでも自信になった
まだ希望がもてたのだ
夏休み、鬼の夏期講習が始まった
僕は幸運なことに早めに勉強を始めたので
長時間勉強することには慣れていた
一日10時間とか余裕でこなせた
そのとき、塾の先生から
関西大学の過去問を解いてみるように言われた
過去問を解くことで早めから問題に慣れようとする作戦だった
しかし赤本を使うのは普通は秋口から、早すぎる気がしたがとにかく解いた
ところが僕はあっけにとられた
長文が長すぎる
しかも内容も難しい
30分で解かなければならない長文を
80分かけて解いていた
塾の先生は
今はこんな感じやけど
秋頃には15分早く読めるようになる
冬にあと15分早く読めるようになる
そしたら目標達成できる
けどそれは諦めないで勉強したらの話やで
僕は絶望はしなかった
むしろ楽しんでいた
夏休みも苦しいけど
とにかくテンションあげて勉強した
そして夏休みの終わり、その学部について調べてみると
AO入試という、自分の個性を武器にして闘う入試方法があることがわかった
内容は
小論文2000文字、志望理由2000文字が一次審査
一次審査が通ったら
当日小論文、面接で合否を決めるというものだ
僕はダメ元で小論文と志望理由書を書いて出した
何回もやり直しをしておそらく12000文字くらいは書いただろう
そして二学期が始まった
そこで僕はそこで指定校推薦の恐ろしさを知った
指定校推薦、学校の推薦で学力試験無し、面接だけで合否を決めるというものなのだが
そもそも推薦をもらえた時点でよっぽどがない限り落ちない
僕の学校はその指定校推薦で半分くらいの生徒が合格した
気がつくとクラスには10人余りしか一般受験のソルジャーがいなかった
そうして焦っているうちに
AOの合否通知が来た
一次が受かっていた
僕もAOで受験戦争離脱の光が見えた
のだ
そして1週間後の二次試験
小論文は余裕だったが
面接をやらかしてしまった
結果は不合格
まぁ受かればいいや程度だったのであんまり挫折することはなかった
むしろ余計に関大に張り付きたくなった
しかしAOに落ちた後は辛い現実に直面した
滑り止めで抑えようとした
公募推薦の大学に全て落ちてしまったのだ
どちらか一つは抑えれると思っていた
慢心だった
AO入試の試験対策でその分のブランクがここに響いたのだ
だがテンションは下げなかった
こうなったら受験を最後まで楽しんでやろうと思った
とりあえず関大とセンター試験の勉強をした
冬休みは毎日死ぬ気で勉強した
後悔だけはしたくなかった
そして受験勉強を楽しんだ
気分転換に山ん中で勉強したこともあった
そしてセンター試験
結果は英語以外はあまりよい結果ではなかった
だが英語だけでも良い結果を残せたので満足だった
自分の成長を肌で感じれたからだ
そしてラストスパート
とにかく過去問を解き日本史を徹底的に追い詰めた
1月末、リベンジ近畿大学
二日試験があったが手応え的にはどちらもイマイチだった
それどころか試験室の誰かの風邪をもらってしまった
このままでは2月1日の関大の試験に影響がでる
2月1日関大
2月2日甲南リベンジ
2月3日関大
2月4日関大
2月6日関大
2月7日関大
結局この鬼スケジュールを風邪のまま突っ切った
毎朝ユンケルを飲んで無理やり身体を動かした
最後の最後の決戦で風邪になるという運の尽き
おそらく全力は出しきれなかっただろう
試験真っ只中、その風邪はオカンにうつった
オカンは僕に黙って病院でインフルの診断を受けてきたらしい
結果は陽性
そう僕は本番の試験に風邪どころかインフルエンザで挑んだのである
試験が終わり空っぽの僕に近畿大学の合否通知がきた
2日とも不合格
そして甲南大学
不合格
絶望だった
これで関大に落ちたら後がないのである
それこそ
大工、お笑い芸人、靴磨きのいずれかの職に就かなければならなかっただろう
そして関大
2月1日不合格
2月3日不合格
2月4日不合格
2月6日補欠合格
2月7日不合格
最後の最後に首の皮が一枚繋がったのだ
夏の模試以後の模試でも常にE判定だったが
最後まで諦めずに勉強した第一志望が合格したのだ
しかし周りをみると第一志望に受からなかった友人は多くいた
中には浪人する友人もいた
本当に大学受験は残酷だと身をもって知った
そこで僕は決心した
塾の先生になって
せめて後輩たちには第1志望に合格してもらいたいという志である
そして今、僕は塾講師になって
生徒を教えている
生徒が第1志望に合格し夢に近づくのための手助けをするために
そして
誰かも認めれる趣味のトラックドライバーになれたのか
バカだけどバカにされない奇人になれたのか
この学生生活を通じて確かめていこうと思います